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poco a poco

すこしずつ、頑張ろうってことです。

偶像崇拝

好きな人がいる。現実に存在している人なのに、わたしはその人のことを知っていて好きだと思うけれど、その人は私のことすらも知らない。つまり、2.5次元ってやつ。

 

好きになった経緯とかそういうのはまあ別にいいとして、なんというかこういうのってすごく一方的な好意だ。うまく世の中に提示してくれているその人の一部分だけを知って、好きだとか言っている。リアルに結ばれる可能性は極めて低いこともわかっていながら、好きだとか言っている。結局のところ、本当にその人が好きなのだろうかわたしは。その人を好きな私が好きで、その人を好きだと言うことが好きで、結局その人を好きなことが好きなんじゃないか。とか思ってしまう。

その好きはもろい。好きだと言う対象はわたしの気分で好きなように変えられる。冷めたらすぐさま他の人を好きだとか言い始めているかもしれないし、好きだと言う気持ちが勝手に自然消滅しているかもしれない。選択の余地があるのは結局、私だ。私が変われば私とその人の関係性はそこで終わる。

こういう好きな人に対しては「私の好きなものになってもらっている」という意識がどこかで、ある。勝手に愛でて、勝手に幸せにしてもらっている。ちょっと冷めて遠ざかっている時もあれば、急に熱がぶり返して好き好き言っている時もあるし、好きの程度も時によってまちまちだ。「こんな中途半端な好きだけどそれでも幸せにしてもらっていますありがとう」という感じ。

 

この前、その人の出るイベントに行った。ドームで、私の席はスタンド上段、距離はそれなりに遠かった。でもその人がそこに存在していたのは事実だった。

行く前、それなりに緊張していたし、楽しみでもあった。実際に同じ空間で見れて、自分はどんな反応をするのだろうと思った。

 

でもなんか最後まで現実感はなかった。

そこにいるんだなぁ、今こんな動きしてるな、顔をしてるなということはわかって嬉しかったけれど、思った以上に私の心は平温だった。

 

(というより周りとの温度差がすごすぎるのはある。画面に出てきたら歓声、出てきたら歓声、近づいてきたら歓声…。そういったテンションについていけないのと、そもそもだいたいぼっちなのできゃいきゃい言える友達もいない。)

 

本当はもっと、あからさまに感動したい。「いつも画面の中で見ているあの人がここにいる!!」ってことを、泣いたり叫んだり笑ったり萌えたり、もっと感情を忙しくして感じたい。

 

でもなんだか、あっけなく終わってしまった。これなら普通に、テレビで見たり画像で見たりするほうが心は動かされているんじゃないか。それらに反応することはすでに私の日常の幸せになっているし。

 

しかしその人自体が好きなはずなのに、実際にイベントで見る時よりテレビや画像で見る時の方がその人として受け止められているってどういうことなのか。結局実体より、いろいろな媒体を介して提供される「その人」が好きなんじゃないのか。

 

結局どこか、偶像崇拝みたいなところがあるんだろうなあと思ってしまう。

 

それでもやっぱり、その人がいることで幸せなんだったらそれはそれでいいんだけど。

 

(3次元での恋や愛が満たされないなら2.5次元に救いを求めるっていう手、私はとてもアリだと思っている。2次元はあまり触れていないのでよくわからない。)

 

 

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